5月25日(水曜日) 九度山 ⇒ 高野山 ⇒ 九度山 道の駅「柿の里くどやま」
弘法大師(空海)が高野山を開創した際に、母公・玉依御前が滞在した慈尊院に、必ず9度は下山したことから「九度山」なずけられました。 慈尊院から始まる高野山への道は、高野七口とよばれる七つの参詣道の主要道となり高野参詣道町石道と言われます。 慈尊院から高野山まで180本の町石が建てられており1町約109mの距離との事でした。 我々の車は大きいのでこの道をたどる事が出来ないので、かつらぎ町まで降りて国道480号線で高野山に上ることにしました。 車🚙が少ない朝早に出発、約1時間かけて高野山の大門を通り抜け奥の院前の駐車場に到着。 もうすでに修学旅行のバスが沢山来ておりました。
大門は高野山の総門で、現在の建物は宝永2年(1705)に再建されたもので高さ25.8m、両脇の金剛力士像は江戸時代の仏師康意(阿形像)運長(吽形像)作によるものです。
奥之院 弘法大師御廟は大師信仰の中心聖地で参道入り口一の橋から御廟まで約2キロの参道の両脇には何百年も経った老杉が高くそびえ、もとには二十万基を超える墓碑が並んでありました。 墓碑には戦国時代の名将から各地の大名・現代では大手の会社名が連ねて有り、その力量を比べているようでとても興味深っかった。
墓碑には伊達政宗供養塔・上杉謙信供養塔・武田信玄供養塔などがありました。
豊臣家墓所
御廟橋から見た奥之院弘法大師御廟・・ここからは先は写真NGでした。 御廟のほかに藤原道長によって建立された灯籠堂があり、その正面には1000年近く燃え続けている二つの消えずの火がありました。 その一つが祈親上人が献じた「祈親燈」、もう一つは白河上皇が献じた「白河燈」といいます。
御供所では熱いお茶のおもてなしがありました。 約2時間かけて参拝後、中の橋案内所の駐車場に戻り休憩。 午後は金剛峯寺前の駐車場に駐車して各お寺を散策する事にしました。
金剛峯寺(世界遺産)は高野山真言宗の総本山で全国に約3600カ寺の末寺を有しており山上のほぼ中央にあります。 弘法大師空海が開創した当時は、高野山全域を金剛峯寺と言っていましたが、現在の金剛峯寺は文禄2年(1593)豊臣秀吉が亡き母の菩提を供養するために木食応其上人に命じて建立した清厳寺・興山寺を明治2年(1869)に合併し、総本山金剛峯寺と改称したそうです。
徳川家霊石(世界遺産) 徳川家光が20年の歳月を費やし寛永20年(1943)に建立。 中を見ませんでしたが右が東照宮家康霊屋、左が二代目将軍秀忠霊屋との事でした。
女人堂 女人禁制の昔、七つの登山口にはそれぞれの女人堂が設けられ参拝の女人は、これより入山されずこのお堂にて真言を唱えたそうです。 明治5年(1872)、女人禁制が解かれたがこのお堂だけ今も残っていました。
金剛三昧院多宝塔 北条正子が夫源頼朝の菩提寺として創建し、1900年4月には国宝に指定され、経堂は高野山唯一の校倉造りで重要文化財に指定されています。
時間を告げる鐘楼とその下を歩く僧侶
常喜院にある願いが叶うイスと赤い地蔵さん 夫婦で長生きするように座ってみました。
大門と金剛峯寺の間には御影堂・金堂・中門・根本大塔・不動堂などがありました。
御影堂・・・弘法大師の持仏堂とされる建物で真如親王が描かれた大師御影を祀っているところ。
金堂・・・高野山開創当時は講堂と呼ばれ平安時代から一山の総本堂として重要な役割を果たしてきました。
不動堂・・・建久9年(1198)行勝上人が建立した鎌倉時代の書院造り様式の仏堂で、国宝に指定されています。
高野山に一泊二日の予定で来ましたが、朝早くからの散策で大体の場所を見学できたので昨日車泊した道の駅に戻ることにしました。
コメント